昭和五十一年十二月十六日朝のご理解
松永享四郎
ご理解第七節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
昨夜、前夜祭を奉仕させて頂きまして、引き続いて富久信会でございました、昨日は、文男先生が司会を致しました、そして、司会が初めにこう云う事を申しております。
合楽で信心の稽古をさせて頂くなら、先ず、ここのところを頂きここのところを体験して行けれる信心を、先ず、体得しなければならない、と云うのは、合楽の信心は、素晴らしいタイミングが生まれて来ると云う事である、もう27年も8年も以前の事を話しておりました。
例えば、当時、毎月ご本部へ月参りを致しておりました、勿論、あの時分の汽車は大変混雑をいたしておりましたが、まあその時分30名.40名のご参拝があっとりました、それで、必ず行き掛けに、小倉に寄るとか、または、帰りに小倉に参拝させて頂くとか、そして、ご本部へお参りさせて頂いたものであります。
もう本当に私共はそれ以来、腕時計と云うものをはめた事はないと云う事を、文男先生が申しておりました。
と云うのは、時計は間違いなくっても、例えば汽車の方が間違うたら、時間を待たなければならん、けれども、神様を頂いて行けば、例え時計はなくってもです、所謂汽車の方が、ちゃっと待っておって呉れる、ある時など、もう1時間も、もう時間表を見ると、1時間も前に出ておらなければいけない汽車が、ちゃんと、何かの事情で、私達を待っていて、乗れる様に待っていて呉れると云った様な事があった。
もう必ず、あの時分は汽車がどんなに混んでおっても、先生が何輌目と云って、何輌目かの汽車に乗っておったら、もう一杯であるけれども、2駅.3駅しよると、その30名.40名の者が全部掛けられる様に、席を頂いておった、もうお参りするたんびんに神様の働きの間違いのない事に、感動しながら、ご本部参拝したもんだ、そう云う素晴らしいタイミングで、家庭の上にも、お商売の上にも表れた。
だから、ここのところを、体得しなければいけません、これは合楽の一つの独特の様なものです、と云うて、これは親先生をいつも中心にして、親先生をいつも頂いてからの、頂くと云うが、一緒の場合は、おかげを頂くけれども、私共の信心がちょっとゆるぐ、信心が云うならば、熱が冷めて来ると、そのおかげが壊れてしまう、タイミングが云うならばくずれて来る、必要なものが必要に応じて、と云う様な見事なおかげになって来ない、と云う様な話を、先に致しております。
ほんに、そげな事じゃったな、何10年前は、ああもう本当にそうでした、ある時、あれは神愛会の結成して、この事を金光様にお届けさして貰い、そして、帰りに他の教会にその事をお届けさして貰う、定款が出来ておりましたから、それをお供えして貰う、お願いして貰う、私と文男先生と吉井の杉貫造さん、杉キヨ子さんのご主人です、亡くなられましたけど、当時総代をしておられました。
3人でそのお届けに参りました時、小倉に寄らせて頂いた時、私共が乗って行かにゃならんと云うその汽車が、小倉でお礼をさせて貰うたら、もうすぐ時間だと、けど、私は奥城へお参りさせて頂いた、そしてから行ったらよい、そんな事しよったら、もう奥城へ参拝しよったら小1時間かかりますからね、それでも、お礼に出る事をちゃっとしてあるから、お礼に出ると云うて、奥城にお礼に出て、そして、駅に参りましたら、ちょうど荷物が預けてございましたからね、その荷物を受け取る時間だけ、文男先生が遅くなってから、あそこの中を踏み越えて、向こうのホ-ムに渡らねば、私共は荷物をとる暇がないから、向こうへ丁度乗らせて頂いとる、文男さんはこちらのレ-ルを横切って、乗って来た事がございましたが。
それは、門司から出る汽車なんですよ、それが、どこで遅くなる筈がないのですよ、門司から小倉迄の間ですから、それでも何か一時間遅れている、と云う様にね、珍しい事ではなかった、いつもの事でした。
特に汽車に乗らせて頂くと、何10名の団体でも、混んでる、もう立錐の余地もないごとしとるけれども、1駅2駅すると、決まって、もうそこは合楽の団体列車のごと、そこに掛けて行ったもんです、それが、乱れてあちらに乗ったり、こちらに乗ったりすると、人がなかにありますとね、もう帰るまで立つとかにゃん、と云った様な事でした。
その様にはっきりしてました、だから、そう云う様な例えば、一つの信心を体得すると云う事を、云うとりましたが、人間がいつもその様に、なら張り切ってとか、いつも、神様を頂き続けておると云う事は、中々至難な事である、もう神様の熱が少し冷めて来ると、すぐタイミングが崩れて来ると云う事はです、これは、今でも同じ事が云えるんじゃないですか。
私が、ここで、おかげを頂いておる、表しておるおかげをです、そのまま自分の家庭で、云わばシャ-プなおかげを頂いておると云うのは、所謂、合楽に掛ける熱情は、いつも燃えている様な時、だから、云わば新しい信者さん方にそれが、多いと云うのです。
段々信心が、5年10年と経って来るとです、それが段々薄らいで来る、だから、人間と云うものは、そういつも、そう張り切ってばかりは居れない訳です、そこでいつも、んなら自分の心の中に神様を頂いて、いつもそう云うおかげを頂かせて頂く為に、今、合楽理念に基づいた、そこを立脚点として、実意丁寧神信心、今まで疎かにしておった、本当にもうよかよか主義です、もうこの位の事はよかよか、もうこれ位の事から、おかげが漏っておったと云う風に、今、云われておるのが、今の合楽の信心であります。
もうこの信心は云うなら、金光教の信心の、もう私は、今日はその事を、今の合楽理念に立脚してと云う事は、天地の哲理と云う事を頂くです、道理、いろんな道理、真理であります、その中のもう絶対動かない、こだけは間違いない、云うなら、大真理と云う話でしょうか、ね、哲理です、合楽理念に立脚した行き方を身に付けると云う事は。
一昨日は、大分支部の共励会でした、それで、私は年に一回、12月には出席するのですけれども、去年行った時のも、私のお話を聞き乍ら、おかげを頂いた人がありました、一昨日もそうでした、足が悪くて足が大変痛むという人がお参りして、私の話を聞き乍ら、もう足が痛んで痛んでたまらんから、もう帰ると云いだした、それで、それをお導きして来とった、井手さんと云う人が、そげな事云わんで、辛抱してから、先生のお話だけは頂いて行かじゃと云うて、頂いておる内に痛みが止まって、昨晩はそのお礼参拝を致しとりました、と云う様なおかげを頂いとる訳ですがね。
これは、4.5日前でしたでしょうか、久留米の稲垣さんが、テレビを見せて頂きよりましたら、何かの予告があっておったのに、天福地福と云う字が出て来た、何か合楽的ですね、天の福、地の福、天福地福です、所謂、富久信会の様な感じですね。
お商売なさる方達が、いや、富久信会と云うのは、福の神の会と云うのを、それをもじって富の久しい会と云うのを富久信会、本当に天福地福のおかげを頂きたい、天福地福とはどう云う事か、天地の中には神愛がみなぎっておると云う事、天地の中には、人間が幸福になるところの基で、一杯になっておると云う事だと、それを、人間が心から、不幸、災難と云うものは招くのだと云う事、天地の中には、おかげが一杯篇満しておるんだと云う事、天福地福はそう云う事なんです。
そこで、そう云うおかげを頂く為には、日田の共励会、年に一回のご大祭をされる為に、今まで娘さんが、踊りの師匠を目指しとりました、ですから、それこそ立派な稽古場が出来とりました、檜造りの舞台に、そして、こちらの方は狭かったけれども、それを改造されまして、まあ百名位の人が詰めれば、詰められる様に、お広前の方が広うして、そして、ご神前はそれこそ、一寸した教会じゃ勝たない位な、檜造りの、その桧舞台をそのまま、神殿にしたんですからね。
そして、あれに、簾ども掛かって、大きな八束がサ-ッと並んで、もうそれこそ見事な、きらびやかな祭場が出来るんです、それを月々の研修会の時には、そこを使われる訳です、やっぱり、昨日一昨日もそこでした、そこに、私が書かせて頂いておる額が掛かってます、それには、天成り地也と書いてあります。
天の成りとは、成就すると云う事ね、天成りと、地也とは、一.金何百円也と書くあの也です、天成り地也と、だから、云うならば天福地福のおかげを頂きたいならばです、この天成り地也の信心をしなければならないと云う、ご理解でした。
天成りと云う事は、天の願いが成就すると、神様の願いが地上に成就する、天地の親神様の願いが、なら、例えば、これ高芝秀雄の上に成就する、久富繁雄の上に成就する神様の願いが、どう云う事になるでしょうか、大坪総一郎の上に、神様の願いが成就しつつあるのが、今日の合楽です。
だから、誰の上にそう云う天地の願いがかけられておる、そう云う願いが成就する時に、私共は云うなら、極楽世界に住む、云うならば、真善美に輝く、かんばかりの世界に住む事が出来るのです、云うなら、天福地福のおかげを頂く事が出来るのです。
それには、先ず、天成り地也の信心を出来なければならないと云う事です、神様の願いが成就するほどしの、私共の上に成就するほどしの、それを今、合楽は、和賀心時代を世界に敷くと云う様な云い方を、致しております事はです、天の願いが、神の願いが、地上に成ると云う事なんです、神の願いが地上に成就する事なんです。
この地球上に神の願いが成就すると云う事、どう云う事になるでしょうか、それこそ、大変な素晴らしい、有難い世界が出来て行くでしょうけれども、中々それが成就にならない、そこを、神様は目指して下さってあるのが、現在の合楽理念だと思うです。
その中には、云うならば、天福地福も、天成り地也も、文男先生が云う、素晴らしいタイミングが生まれてと云う事もです、もう日々の上にです、必要と思いよったら、必要な物が集まって来る、時計は要らん、行ったらもうそこに、ちゃんと自動車が待っとる、向こうの汽車との連絡もピシャッと、もう本当に置いた物を取る様なおかげの頂ける世界に、私共が居るのだけれども、それをよう表しきらんでおる、頂ききらんでおる、と云うのが、云わば、私共人間ではないか、それを、たまたま合楽では、もう20数年、30年近く前から、その事をず-っと頂き続けてから、今日である。
そこで、ならここで一生懸命信心の稽古をさして頂いて、一心が立っておる時には、そう云うタイミングが、銘々の店の上にも、個人の上にも、家庭の上にも、表れておると云う事なんです。
そこで、そう云う張り切った心と、いつも有難い、勿体無いと云うてばっかりおれない心が、と云うのが、云わば私共ですけど、そこを切る事なく、空間を造る事なく、おかげが頂けて行く生き方を、合楽理念のマスタ-と云う、合楽理念の体得として、行の上に頂いて、実意丁寧神信心を続けて行くと云う事になるのです。
天成り地也、神の願いが地上に成就する、先ず、それには、神の願いが、なら個人個人の上に成就して行く、合楽の信者、信奉者の上に、一人一人の上に、神の願いが成就する、おかげを頂く事の為に、先ず、私の願いが成就する事を置いて、神様の願いが成就致します様にと云う信心が必要と云う事になるのです。
只、自分がままになりさえすればよい、ではなくて、先ずは、神様がままになりなさると云う事を願う信心、神様は氏子がままになる事を願うて下さる、それを、あいよかけよと云うのである。
親は子の事を願い、子は親の事を願う、願い合うて行く世界を、合楽の世界と云うのである、そこで、その教祖のお言葉を借りるとです、どう云う事になるかと云うと、天地日月の心になる事肝要だと云う事になるのです。
今日のご理解の芯です、天地日月の心になると、そこで、合楽理念になると云う事、あらゆる角度から頂いてまいりますとです、先ずは、理念の中、天が与えて与えてやまない、美わしの心、私共が、美しい心にならなければいけない、神様は、云わば私共に、恵んで恵んで恵み続けて下さる、それには条件がない、無条件に、それは、降る雨の様に現われておるのです、降る雨が地上に吸い込んで行く様に、私共が吸い込む様に頂いて行けれるのです。
だから、先ずは、神の心を心としてと云う事は、先ず、天の心を私共の心とする精進が必要である、そこに、日々の改まりが、第一と云う事になるのです。
自分の心の中にこう云う汚い心がある、この汚い心を除いて行く精進なのです、神様の目からご覧になれば、それは、目の粗い事でしょうけれども、そこんところに精進をする、いつも限りなく美しくなろうと、姿勢を向けておくと云う事なんです。
地也と云う事は、天福地福のおかげを頂くには、もうこの信心に極まったと云うのが、天成り地也、地也と云うのは、也と云うのはもう極まったと云う事です、何百何十何円也、もうこれで決まるでしょうが、その也と云うのは、そう云う意味なのです。
神様の本当のおかげを頂き止める信心とは、天地ね、土の様な信心、ですから、地の信心です、もう地の信心に極まったんです、ここに実意丁寧神信心が要るのです、どう云う例えば問題が起きて参りましてもです、例えば、災難が起こって参りましてもです、まあ、ありとあらゆる、嫌だと思う事がありましても、それは、神様のお働きと見る、神愛の現われだと見て、それを合掌して受けて行く、それこそ、天地の様な信心なんです。
黙って受けて受けて受け抜かして頂くのが、大地です、その大地の信心が身に付いて来る、そのところに、精進焦点をして行く、それが、今、合楽で云われておる、合楽理念なんです、そう云う信心を本気で、一心発起させて貰うて、頂いて行くその上にです、所謂、日月の心が必要なんです。
日月ほど狂いのない働きを示して下さるものはありますまい、今日は、雨の降るけんで、もう止めとこうかと云う事は絶対ないんです、降ろうが照ろうがね。
やはり、天地の所謂、日月の働きはあっておる様に、所謂、実意丁寧神信心、肝心の事はしよるけれども、もうこん位の事は肝心じゃないと思いよった、生き方、大きなおかげを頂いとられる方達は皆、そこんところを大事にしておるのです。
甘木の初代だって、又は、玉水の初代の湯川先生あたりの、ああ云う体得、ああ云うごひれいを、それこそ地上に輝かしなさった方達を見せて頂くとです、その私共が、もうそれくらいの事はよかよかと、云う様な事をよかよかと云うて済まさずに、そこんところをきちっと、云うなら、為そうと思えば、子供でも成せる様な事を、私共は疎かにして来た、そこから、確かに頂いたおかげが、おかしい、どこからか洩れておった、だから、堂々まわりのおかげしか頂けなかった。
そこに気付かせて頂いて、なら、合楽理念を土台にして、実意丁寧神信心と云う事が如何に大事かと云うことだ、まあ、云わば悟らせて頂かなければいけない、判っただけじゃいかん、翻然として悟らなけりゃいかん、そこから、実意丁寧神信心が生まれて来る。
いつもお便所に行ったら、お便所がいつも綺麗にしとる、スリッパが綺麗にしてある、トイレットペ-パ-はいつもこうやって、キチッと折ってある、風呂へ行ったらタオルがキチッとしとる、石鹸がキチッとそこに水を切って置いてある、後から入る者が、何と気持ちの良いお風呂であろうかと、云うそのそれを、する心が心行であり、その心行で為した事を、次の人が見たりする時に、また、心の中にああ有難いなあと、云う心が生まれて来る。
それが、拡がりに拡がって行く世界を心行世界と云う、心をいつも使って置くと云う事なんです、ですから、為そうと思えば成せれると云う訳です、それは、子供でも為そうと思えば成せれる事を、それが、今日云う日月の心なんです、ね。
実意丁寧神信心、だから、教祖はそこんところを、一言にして、なら、天地日月の心になること肝要だ、その行き方こそが、云うならば、今日私が頂きます、おかげの頂ける哲理なのです、人間が幸せになって行く、それが哲理なのです、大真理なのです。
天地書付を基軸にしてと、このおかげは、和賀心になると云う事、これは、もう大哲理なのです、そこでその和賀心を目指すと云う事はです、天地日月の心になること肝要と云われる信心を、身に付けて行かねば、和賀心は生まれてまいりません。
天地は流行る事なければ、終わる事なし、これは皆さん判っておられるですね、一番最後に信心はなくてもおかげはやってある、と云う事も、皆さん判っておられますよね、信心はない者でもやはり、日々お生かしのおかげを頂いとると云う事だけでも、おかげを頂いとるからこそなのです。
だから、一番肝心なところは、信心させて頂く者は、そう云う世界におかげを頂いとるのですから、天地日月になること肝要だと云うところを、なら、天地日月の心とはと、云う追及を、云わば、私共は判らんなりに、20数年間、合楽は続けて来た、それを、一まとめにさせて頂くと、合楽理念と云う事になるのです。
その合楽理念を基にして、私共が日々、日月の心、所謂、実意丁寧神信心を頂いて行く限りです、私共の心の中にいつも有難うして、涙がぼろぼろこぼれる様な、そう云う有難いと云うものを、持ち続ける事は出来なくても、そう云う理念に基づいてそう云う信心をして行くところからです。
文男先生が、昨日申しとります様に、合楽で先ず体得せねばならない事は、素晴らしい、天地のリズムを聞けれる行き方、所謂、日を書いて光である、天地の云うならば、音律と云うか、天地のリズムと、私共小天地の心とが一つに調子が合うと行けれる生活がそこから生まれて来る。
日と光のリズムである、輝き光る事がこの日と光の音律であります、日と光の音律が聞き取れる信心、を目指さなければいけない、そこから、天地日月の心になると云う事が云わば、具体的に判って来る、ですから、一寸調子が狂うと、調子を合わせる事に精進する事が、自分で判って来る。
リズムに乗った行き方が、如何に有難いものか、楽しいものかと云う事が判って来る、この天地の中にはそれこそ、天福地福である、もうおかげをやりたしと云うご一念、云うなら、神愛だけが、この地球、この宇宙には、篇満しておるのである。
それを頂き止めるすべを、教祖は、天地日月の心になること肝要なりと、云う短いお言葉で、お示しになっておられるのであります、ね、本気で天地日月の心になる事の精進を、日々させて頂かねばなりません。 どうぞ。2